春の訪れを告げる魚として親しまれてきたイカナゴ。
その稚魚「シンコ」を使った「くぎ煮」は瀬戸内海沿岸地域の伝統的な郷土料理として長く愛されてきました。
しかし近年、いかなごの漁獲量は激減し、2025年には大阪湾で2年連続の休漁、播磨灘でもわずか3日間の操業で終漁となる深刻な事態に陥っています

かつては兵庫県だけでも年間1万トン以上が水揚げされていたいかなごが、なぜここまで減少してしまったのでしょうか。
その背景には「きれいすぎる海」という意外な問題や、気候変動、海底環境の変化など複合的な要因が絡み合っています。
本記事では、いかなご不漁の原因と対策について、解説します。
いかなご不漁の原因とは①
「きれいすぎる海」が引き起こす貧栄養化問題
イカナゴの不漁が続く主な原因として、プランクトンの減少が重要な要因となっています。
高度経済成長期、瀬戸内海は工業廃水や生活排水に含まれる窒素やリンといった栄養塩が過剰に流入し、赤潮が頻発する深刻な汚染状態にありました。
この環境問題に対応するため、1973年に「瀬戸内海環境保全特別措置法」が制定され、工場や下水処理場からの排水規制が強化されました。

これらの環境規制は赤潮の発生を減少させるという点では大きな成果を上げました。
しかし皮肉なことに、この「きれいな海」が新たな問題を引き起こすことになったのです。

栄養塩減少がもたらす生態系への影響
栄養塩、特に窒素とリンは海洋生態系の基盤を支える重要な元素です。
これらは植物プランクトンの増殖に不可欠であり、海の生産力を決定づける要素となっています。
兵庫県水産技術センターの調査研究により、瀬戸内海における栄養塩の減少とイカナゴの不漁には明確な相関関係があることが科学的に示されました。

この科学的知見は、2015年の瀬戸内海環境保全特別措置法の改正にも影響を与え、法律の附則に「栄養塩と水産資源の関連性について5年間の調査研究を行う」という項目が追加されるきっかけとなりました。
これにより、単に「きれいな海」を目指すのではなく、「豊かな海」を取り戻すという新たな環境政策の方向性が示されることとなったのです。
植物プランクトン減少とイカナゴの餌不足
兵庫県水産技術センターの調査によれば、イカナゴの胃内容物重量指数(SCI:胃の中の餌の量を示す指標)と肥満度は年々低下傾向にあり、餌不足が深刻化していることを示しています。
注目すべきは、同じ全長のイカナゴでも、近年の個体は30年前に比べて体重が軽く、痩せていることが確認されています。さらに、同じ全長の親魚の1尾あたりの孕卵数(産卵数)も約3割減少しており、餌不足が繁殖能力の低下にも直結していることが明らかになっています。
一度このサイクルに陥ると、資源の回復は容易ではありません。
繁殖力の低下は次世代の資源量にも影響するため、長期的な資源回復を困難にする要因となっており、、餌環境の悪化は単にイカナゴの量的な減少だけでなく、質的な変化ももたらしているのです。
栄養状態の悪いイカナゴは夏眠に必要なエネルギー蓄積が不十分となり、夏場の高水温期を乗り切る能力も低下しています。このように、栄養塩の減少に端を発する餌不足は、イカナゴの生活史全体に悪影響を及ぼしているのです。
いかなご不漁の原因とは②
気候変動による海水温上昇の影響
イカナゴの生態と水温の関係
イカナゴは本来、冷たい水を好む冷水性の魚です。
その生理的特性から、水温変化に対して非常に敏感であり、特に高水温に対する耐性が低いことが知られています。
イカナゴの適水温は比較的狭い範囲に限られており、成長や繁殖に最適な水温は10〜15℃程度とされていますため、水温が20℃を超えると代謝が急激に上昇し、エネルギー消費が増大するため、生存に不利な状況となります。
イカナゴの生活史は水温と密接に関連しているのです。
秋から冬にかけての水温低下が産卵の引き金となり、春先の水温上昇とともに孵化した稚魚は急速に成長します。そして夏場の高水温期には海底の砂に潜って「夏眠」という特殊な生態を示。この夏眠は、高水温と餌不足の夏を乗り切るための生存戦略であり、イカナゴの生態の大きな特徴となっているのです。
しかし、近年の気候変動による海水温の上昇は、このイカナゴの生理的限界を超える状況を生み出しつつあります。特に夏場の最高水温の上昇と高水温期間の長期化は、夏眠中のイカナゴにとって大きなストレスとなっています。
海底環境の変化とイカナゴの生息地減少
イカナゴの生態にとって、海底の砂地は欠かせない環境要素です。
産卵時には砂地に卵を産み付け、また夏の高水温期には砂に潜って夏眠するという生活史を持つイカナゴにとって、適切な粒度と質の砂地は生存の必須条件となっています。
しかし、高度経済成長期の建設ラッシュに伴い、コンクリート用骨材として大量の海砂が採取されたことで、イカナゴの生息に適した砂地が大幅に減少しました。

海砂採取は単に砂を取り去るだけでなく、海底地形そのものを変化させる影響も持ちます。
採取跡には窪地(採掘跡)が形成され、そこには有機物が堆積して貧酸素水塊が発生しやすくなります。このような環境変化はイカナゴだけでなく、海底生態系全体に悪影響を及ぼしてしまうのです。
現在では多くの地域で海砂採取は規制されていますが、一度失われた砂地環境の回復には長い時間を要するため、過去の採取の影響は今なお続いているのです。
明石海峡大橋建設など物理的環境変化の影響
明石海峡大橋をはじめとする大型構造物の建設は、海峡部の物理的環境に大きな変化をもたらしました。
明石海峡大橋の建設により、海峡の幅は4kmから3.8kmへと狭まり、これにより潮流のパターンにも変化が生じることになったのです。

鹿之瀬は明石海峡の東側に位置する浅瀬で、潮流によって形成された砂堆(さたい)であり、古くからイカナゴの好漁場として知られていました。
しかし、明石海峡大橋の建設に伴う潮流の変化により、この砂堆の形状や砂の質にも変化が生じ、イカナゴの生息環境としての質が低下したとの指摘もあります。
また、大型構造物の建設は工事中の濁りや騒音、振動などによっても海洋生物に影響を与えます。特に橋脚の建設では大規模な掘削や杭打ちが行われ、その影響は広範囲に及びます。さらに、完成後も橋脚周辺では潮流の乱れや渦の発生など、局所的な海洋環境の変化が生じてるのです。
今後の大型開発においては、事前の環境影響評価をより精緻に行い、海洋生態系への影響を最小限に抑える工夫が求められています。
いかなご不漁に対する対策
栄養塩管理の見直しと「適度に豊かな海」への転換
「きれいすぎる海」の問題が認識されるようになった2010年代以降、瀬戸内海の環境政策は大きな転換点を迎えています。
2015年には瀬戸内海環境保全特別措置法が改正され、それまでの「水質汚濁の防止」という単一目標から、「豊かな海の実現」という新たな方向性が加わりました。この法改正により、栄養塩と水産資源の関係についての科学的知見を集積する調査研究が進められることとなりました。
さらに2021年の法改正では、「栄養塩類の管理」という新たな概念が導入され、地域の実情に応じて栄養塩類の濃度を下げる対策だけでなく、必要に応じて栄養塩類の濃度を上げる対策も可能となりました。
これにより、兵庫県では「栄養塩類管理計画」を策定し、冬季を中心に下水処理場からの栄養塩供給を増やす「季節別運転管理」などの取り組みが始まっています。

このような栄養塩管理の見直しは、イカナゴだけでなく、ノリやカキなど他の水産資源にも好影響をもたらすことが期待されています。
※ただし、過剰な栄養塩供給は再び赤潮などの環境問題を引き起こす恐れもあるため、科学的モニタリングに基づく慎重な管理が不可欠です。
海底耕耘など漁業者による自主的な取り組み
兵庫県淡路島の漁業者グループは、独自に開発した耕耘器具を用いて定期的に海底耕耘を実施しています。
この取り組みにより、海底の酸素環境が改善されるとともに、底質から栄養塩が供給され、植物プランクトンの増殖を促進する効果が確認されています。また、耕耘により海底の砂の質も改善され、イカナゴの夏眠環境としての適性も向上するという副次的効果も期待されています。
明石市の漁業組合でも、2021年5月に明石海峡の西側にある「鹿ノ瀬」と呼ばれる丘陵地帯で海底耕耘が行われました。この活動には明石市4漁業組合と淡路西浦の2漁業組合が連携し、約50隻の船が参加して約2平方キロメートルの海底を耕しました。
いかなご漁獲制限と資源保護のための規制強化
イカナゴ資源の保護のため、各地の漁業者組織は自主的な漁獲制限や操業規制を強化しています。
特に近年の深刻な資源減少を受けて、従来以上に厳しい規制が導入されています。
2025年の漁期では、大阪湾では2年連続で自主休漁が決定され、播磨灘でも3月12日に解禁されたものの、わずか3日後の3月14日には終漁となりました。
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産卵親魚の保護
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解禁日の設定
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終漁日の設定
特に播磨灘では、産卵親魚を保護するため、産卵の終了を確認した上で解禁日が決定されています。
また、稚魚が十分に成長してから漁獲を開始するため、事前に試験操業を行い、魚体測定結果から成長状態を確認した上で解禁日を決定する方式が採用されています。
兵庫県では、平成29年(2017年)以降、例年より早めの終漁日を設定し、翌年の親魚資源の確保に取り組んでいますが、それでも資源状況は改善せず、漁獲量は激減しています。

2025年2月19日に発表された「イカナゴシンコ(新子)漁況予報」では、今漁期のシンコ漁獲量は平年と比較して低水準であり、3海域とも平年を大きく下回り、2017年漁期以降の不漁年の中でも最も厳しい漁模様になると予想されていました。
この予測通り、播磨灘での漁獲は非常に少なく、解禁初日の2025年3月12日には明石市の魚の棚商店街の各鮮魚店の前に入荷待ちの長い列ができましたが、供給が少なく購入できない状態となりました。
2025年いかなごの水揚げ量と価格動向
2025年(令和7年)のいかなごシンコ漁では、資源減少と不漁の影響が顕著に表れ、過去最高値の価格が記録される一方、水揚げ量は極端に少ない状況が続いています。
2025いかなご漁解禁
2025年3月12日に播磨灘で漁が解禁されましたが、水揚げ量は極めて限定的でした。
明石市の林崎漁港では8隻が出漁しましたが、水揚げは7籠半(約187.5kg)にとどまり、昨年の20籠(約500kg)の約3割に留まりました。これは前年(2024年)の25トン(25,000kg)の水揚げ量と比べても極端に少ない数値です。
更に深刻なのは、大阪湾では2年連続で自主休漁となり、漁が実施されていない状況です。
過去の漁獲量推移から、平成29年(2017年)以降、兵庫県のイカナゴ漁獲量は2,000トンを下回る状態が持続しており、2025年も同様の厳しさが予想されます。
漁況予測と背景要因
兵庫県立農林水産技術総合センターの予測では、2025年は2017年以降の不漁年の中でも最も厳しい漁況とされています。
稚仔の分布調査では、播磨灘で1㎡あたりの尾数が0.1(平年8.9)、大阪湾で0.3(平年13.2)と、両海域とも昨年を下回る水準です。産卵量指数も0.10(昭和61年を1.00とした場合)と、平年の3.03を大きく下回り、資源量は危機的です。
初競り価格の記録的高騰
林崎漁港での初競りでは、1籠(約25kg)あたり20万6,666円が付与され、過去最高値を更新しました。
これは前年比で約2割の上昇で、1kgあたり約8,266円という計算になります。
小売価格の高騰
鮮魚店での小売価格は、1kgあたり9,000~13,000円が相場でした。
魚の棚商店街では11,000~13,000円/kgの販売が確認され、店舗によっては14,800円/kgの高値も見られました。これは前年比で約3,000円の値上がりを示しており、不漁と需要の高さが価格を押し上げています
いかなご不漁の原因と対策を総括
瀬戸内海のイカナゴ漁は危機的状況にあります。2
025年3月、播磨灘では3日間という異例の短さで漁が終了し、大阪湾では2年連続で休漁となりました。かつて兵庫県だけでも年間1万トン以上が水揚げされていたイカナゴですが、近年は数十トンにまで激減しています。
この不漁の原因は複合的です。
第一に、環境規制の強化により海が「きれいすぎる」状態となり、栄養塩が減少したこと。
第二に、気候変動による海水温上昇がイカナゴの生存に悪影響を及ぼしていること。
第三に、海砂採取や沿岸開発によりイカナゴの生息環境が悪化したことが挙げられます。
これらの問題に対して、「適度に豊かな海」を目指した栄養塩管理の見直し、漁業者による海底耕耘、厳格な資源保護策などが実施されていますが、資源回復の道のりは長く険しいものとなっています。
イカナゴの不漁は単に一つの魚種の問題ではなく、海洋環境全体の健全性や人間と海の関わり方を問い直す重要な警鐘となっているのです・・・。