減反政策は誰が始めた?開始から廃止まで50年の歴史を完全版で解説

減反政策

「減反政策って誰が始めたんだろう?」ニュースや教科書で目にするこの政策、具体的な人物名が出てこなくて不思議に思いませんか?

実は、減反政策には「この人が始めた」という単独の発案者はいません。

1970年、佐藤栄作総理大臣の時代に、政府組織全体が深刻な米余りと財政赤字に追い込まれ、苦肉の策として導入されたのです。

本記事では、当時の総理や省庁の動き、なぜ始まったのか、そして2018年の廃止に至るまでを、誰にでもわかるように時系列で徹底解説します。

目次

 減反政策は誰が始めたのか?

開始時の総理大臣は「佐藤栄作」

佐藤栄作内閣の時代背景

減反政策が本格的に開始されたのは1970年(昭和45年)、当時の内閣総理大臣は佐藤栄作氏でした。

佐藤栄作内閣は1964年から1972年まで続いた長期政権で、沖縄返還やノーベル平和賞受賞で知られていますが、国内政策では高度経済成長のひずみへの対応に追われていました。

当時の日本は、戦後復興から高度成長へと駆け上がる一方で、食生活の急速な欧米化により米の消費が減少し、逆に農業技術の向上で生産量は増え続けるという「米余り」の深刻な事態に直面していました。この矛盾を解決するため、佐藤政権下で「総合農政の推進」が閣議決定され、その柱として生産調整(減反)がスタートしたのです。

総理個人ではなく「政府の組織決定」

ただし、「佐藤栄作が個人的に発案した」というわけではありません。

減反政策は、当時の農林省(現在の農林水産省)が立案し、財政赤字に苦しむ大蔵省(現在の財務省)が強く後押しして、政府全体として決定された組織的な政策です。

つまり、政治責任という観点では佐藤栄作総理がトップでしたが、実際には官僚機構と政治家が一体となって「このままでは国の財政が破綻する」という危機感を共有した結果生まれた政策だったのです。

特定の「犯人」を探すよりも、当時の時代背景と政府組織全体の判断として理解するのが正確です。

主導したのは農林省と大蔵省

農林省の役割と生産調整の立案

減反政策の具体的な制度設計を行ったのは農林省(現・農林水産省)でした。 農林省は、米の過剰在庫問題と食糧管理会計の赤字を解決するため、以下の3つを柱とした生産調整策を立案しました。

  • 新規の水田開発(開田)の禁止
  • 米の作付面積を減らした農家への補助金支給
  • 米から麦・大豆などへの転作に対する奨励金支給
杉山 制空

これらの施策により、国が毎年都道府県ごとに生産目標を設定し、それを市町村、農協を通じて個々の農家に割り当てる仕組みが構築されました。 この「上から目標を押し付ける」スタイルが、後に大きな批判を浴びることになります

大蔵省の財政圧力が決定打に

一方、減反政策導入を強力に推進したのは大蔵省(現・財務省)でした。

当時、戦時中に作られた食糧管理制度がまだ存続しており、政府は農家から米を高く買い取り、消費者には安く売るという「逆ざや」構造で運営していました。

この食糧管理特別会計(食管会計)の赤字は年々膨らみ、国家予算を圧迫する深刻な問題となっていました。「このままでは財政が破綻する」と危機感を抱いた大蔵省が、農林省に対して「何としても米の生産量を減らせ」と強い圧力をかけたことが、減反政策誕生の直接的な引き金となったのです。


減反政策とは何か?基本を理解する

日本の農業

減反政策の定義と仕組み

「減反」という言葉の意味

「減反」とは、文字通り「田んぼ(反)を減らす」という意味です。正式には「生産調整」と呼ばれますが、一般には「減反政策」として広く知られています。

この政策の本質は、米の供給量を強制的に減らすことで、米価の暴落を防ぎ、同時に政府の財政負担を軽減することにありました。ただし、食糧管理制度そのものは維持したまま、生産量だけを削減しようとしたため、「矛盾を抱えた妥協策」とも評されています。

生産調整と転作奨励金の仕組み

具体的な仕組みはシンプルです。国が毎年「今年はこれだけ米の生産を減らしましょう」という目標を設定し、それを都道府県→市町村→農協→個々の農家へと割り振ります。

農家には2つの選択肢がありました。

  1. 休耕:田んぼを休ませて何も作らない
  2. 転作:米以外の作物(麦、大豆、飼料作物など)を栽培する
杉山 制空

どちらを選んでも、目標を達成すれば国から補助金・奨励金が支払われる仕組みでした。 逆に、目標を守らない農家は補助金を受け取れないだけでなく、地域内で孤立するケースもあったと言われています。

減反政策はいつからいつまで続いたのか

1970年開始から2018年廃止まで

減反政策は1970年(昭和45年)に開始され、2018年(平成30年)に廃止されました。約48年間という、非常に長い期間続いた政策です。

この間、政策の内容は何度も変更されました。特に1995年には食糧管理法が廃止され、政府による米の買い上げ制度そのものが終了しましたが、減反政策だけはそのまま残り続けました。「米の固定価格買い取りはやめたのに、生産調整だけは続ける」という不思議な状態が、2018年まで続いたのです。

現在も続く「実質的な生産調整」

2018年に国による生産目標の配分は正式に廃止されましたが、実は「実質的な減反」は今も続いています。

現在も、主食用米から飼料用米(家畜のエサになる米)への転作には手厚い補助金が出ており、農家にとっては「主食米を作るより飼料米を作った方が儲かる」という状況が続いています。つまり、形を変えた生産調整が現在も行われているというのが実態です。

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減反政策と自民党政権の関係

佐藤栄作政権の決断

「総合農政」の一環としての導入

佐藤栄作政権は、減反政策を単独の施策としてではなく、「総合農政」という大きな枠組みの中で位置づけました。これは、米だけに依存しない多角的な農業経営を推進し、農家の所得向上を図るという建前でした。

杉山 制空

しかし実態は、財政赤字の削減が最優先であり、「総合農政」は農家を説得するための美辞麗句に過ぎなかったという批判もあります。佐藤総理自身が強力に推進したというより、官僚機構の提案を承認したというのが実情に近いでしょう。

農協票と政治的ジレンマ

自民党にとって、農家と農協は選挙での重要な票田でした。

特に地方の一人区では、農協の組織票が当落を左右する決定的な要素でした。

そのため、「食糧管理制度を廃止して市場原理に任せる」という抜本的な改革は、政治的に不可能でした。減反政策は、農家の反発を最小限に抑えながら財政問題を緩和するという、政治的な妥協の産物だったのです。

自民党の歴代政権と減反政策

田中角栄・中曽根康弘時代の継続

佐藤栄作の後を継いだ田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘といった歴代総理は、誰も減反政策を廃止しようとはしませんでした。むしろ、米余りが深刻化するたびに減反面積を拡大し、補助金を増額するという対症療法を繰り返しました。

杉山 制空

1985年と1994年の冷害で一時的に米が不足し緊急輸入を行った際も、翌年にはすぐに減反を再開するという右往左往ぶりでした。これは、減反政策が本質的な問題解決にならないことを如実に示しています。

​小泉純一郎政権での改革論議

2001年から2006年まで続いた小泉純一郎政権は、「聖域なき構造改革」を掲げ、農業分野にもメスを入れようとしました。

小泉政権下では、大規模農家への支援集中や減反政策の見直しが議論されましたが、最終的に廃止までには至りませんでした。


減反政策を廃止したのは誰か?

減反政策

安倍晋三政権の決断

2013年の廃止方針発表

約50年続いた減反政策にようやく終止符を打ったのは、第2次安倍晋三政権です。

2013年11月26日、政府は「農林水産業・地域の活力創造本部」(本部長=安倍晋三首相)で、5年後の2018年度から減反を廃止するという方針を正式決定しました。

杉山 制空

安倍政権がこの決断を下した背景には、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への参加を見据え、日本農業の国際競争力を高める必要があったという事情があります。また、「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍氏にとって、減反政策は戦後農政の象徴的存在でもありました。

2018年の正式廃止とその狙い

2018年(平成30年)産の米から、国による生産数量目標の配分が廃止されました。これにより、農家は自分の判断で作付面積を決められるようになりました。

杉山 制空

ただし、完全な自由化というわけではありません。政府は「需要予測」という形で生産の目安を発表し続けており、転作補助金も継続されています。このため、「廃止はまやかしで、実質的には継続している」という批判も根強くあります。

【減反政策】廃止後の現状

飼料用米への転作補助は継続

廃止後も、主食用米から飼料用米への転作には、10アールあたり最大10万5000円という手厚い補助金が出ています。これは主食米を栽培するより遥かに高収入になる水準です。

その結果、多くの農家が飼料用米の栽培を選択し、主食米の生産は抑制され続けています。つまり、「減反」という名前は消えましたが、補助金によって生産をコントロールするという本質は何も変わっていないのです。

「実質的な減反」は残っている?

立憲民主党や国民民主党などの野党は、この転作補助金を法律で恒久化しようという動きさえ見せています。これは事実上、減反政策を復活させることに他なりません。

つまり、2018年の「廃止」は形式的なものに過ぎず、実質的な生産調整は今も続いているというのが現実です。 安倍政権が本当に減反を終わらせたのか、それとも看板を変えただけなのか、評価は分かれています。

減反政策はなぜ50年も続いたのか?

減反政策が50年近くも続いた最大の理由は、政治的な既得権益です。 農家と農協は自民党の重要な支持基盤であり、減反補助金は彼らにとって貴重な収入源でした。

歴代の自民党政権は、この既得権益に手を付けることを恐れ、抜本的な改革を先送りし続けました。 その結果、本来は一時的な措置であったはずの減反が、半世紀も続く「常態」となってしまったのです。

農協と自民党の利害関係

農協は単なる農家の協同組合ではなく、強力な政治団体でもあります。

自民党は農協の組織票に依存し、農協は政府からの補助金に依存するという、相互依存関係が形成されていました。この構造が、減反政策を「誰も止められない制度」にしてしまいました。開始責任は佐藤栄作内閣にありますが、継続させ続けた責任は、その後の全ての自民党政権が共有していると言えるでしょう。


減反政策は誰が始めた?】よくある質問(Q&A)

Q1。 減反政策を始めた総理大臣は誰ですか?

A. 減反政策が本格的に開始された1970年(昭和45年)当時の内閣総理大臣は佐藤栄作氏です。 ただし、佐藤総理個人が発案したのではなく、農林省と大蔵省が主導し、政府全体として決定された組織的な政策でした。 政治責任という意味では佐藤内閣が責任を負いますが、特定の一人の「犯人」がいるわけではありません。

Q2。 減反政策を廃止したのは誰ですか?

A. 第2次安倍晋三政権です。 2013年11月に廃止方針を決定し、2018年産の米から国による生産数量目標の配分を終了しました。 ただし、飼料用米への転作補助金は継続されており、「実質的な減反は続いている」という批判もあります。

Q3。 小泉純一郎元首相は減反政策と関係ありますか?

A. 小泉純一郎氏が減反政策を始めたという事実はありません。 小泉氏の初当選は1972年で、減反開始(1970年)の後です。 ただし、2001年から2006年の小泉政権時代に、農業改革の一環として減反政策の見直しが議論されたことはあります。 しかし、最終的に廃止までには至りませんでした。 減反を実際に廃止したのは安倍政権です。

《総括》減反政策は誰が始めた?

「減反政策は誰が始めたのか?」この問いに対する答えは、「1970年の佐藤栄作内閣」です。しかし、より重要なのは「なぜ始まったのか」「なぜ50年も続いたのか」という点です。

減反政策が生まれた根本原因は、戦時中の1942年に作られた食糧管理制度にあります。この制度は、米不足の時代には国民を飢餓から救う重要な役割を果たしましたが、豊かになった戦後社会には全く合わなくなっていました。政府が米を高く買って安く売るという「逆ざや」構造は、巨額の赤字を生み続けました。

本来なら食糧管理制度そのものを廃止すべきでしたが、農家と農協は自民党の重要な支持基盤であり、政治的に不可能でした。そこで生まれた妥協策が「制度は残すが生産量は減らす」という減反政策だったのです。

この政策の最大の問題は、本質的な解決にならなかったことです。

生産性の低い田んぼだけが削減され、全体の生産量は期待したほど減りませんでした。さらに、意欲ある農家が規模拡大しようとしても減反の割り当てが足かせになり、日本農業の競争力低下を招きました。

2018年に安倍政権が廃止を決定しましたが、飼料用米への転作補助は継続されており、「看板を変えただけで実態は変わっていない」という批判もあります。

減反政策の歴史は、一度作られた制度と既得権益が、時代の変化にいかに強く抵抗するかを示す教訓となっています。

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